第六章
「宇宙への梯子」
(前編)
おや、と出雲みどりは思った。
みどりが預かる食卓の、今朝のメニューは鰺の開きに葱と豆腐のみそ汁、納豆、漬物、それに昨日の夕食に出した佃煮。
それらを並べ終わってもいないうちに、息子の銀河が茶碗を置いたからだ。
綺麗に、空だった。
米粒ひとつ、残されていない。
「おかわりは?」
「いる! 大盛りで!!」
「丼の、だね?」
「うん!」
答えた息子の、その口から覗く白い歯は、テレビの中の朝ドラ女優の笑顔より眩しい。
「はいよ」と答えて、出雲家の食器棚のヌシで特製ラーメン丼ワンパク仕様を取りに向かうみどりは、内心でほっと胸を撫で下ろしていた。
――出雲銀河に意外と繊細なところがあるのを、出雲家の食卓と台所の最高責任者である彼女は、誰よりも知っていた。それはテキメンに朝の食卓に出るからだ。
ご飯丼、大盛り三杯。
これを平常時として、前日のテストで落第点を取るなり、その日の試合に自信がなかったりすれば、普通盛りの三杯になるし、友だちとケンカなどすれば、二杯で止まる。
ここ一週間に至っては、それが、ご飯茶碗の普通盛り一杯という尋常でない減少を記録した。出雲家の食卓開闢以来、空前にして絶後の事態である。
食卓の隅。
椅子が、一つ、空だった。
出雲家長男の朝食時における炭水化物摂取量の急減少は、その椅子の主の消滅と機を一にして発生していた。
――そこに座っていた少女は、現れた時と同じぐらい唐突に姿を消し、そしてまだ戻っていない。
なのに銀河の食欲だけが突如として復活したということは。
「銀兄、ケイトちゃん、帰ってくるの?」
何かを直感したのか、出雲家の長女であるところの乙女が、兄に聞いた。
「うーん、もうちょっと、かかるかな」
みどりの差し出した特盛り丼飯を両手で受け取りながら、銀河は答えた。
「でも、心配はすんな。兄ちゃん、今日、これから迎えに行ってくるから」
その声は晴れやかだった。
銀河の父親でありみどりの夫である源一が、広げた新聞の後ろでうんうんと得意げに頷いているのが、みどりにも伝わってきた。
それで、みどりも、きっと大丈夫だろうと思った。
「よーし、いただきます!」
目の前でズドンとそびえる炭水化物の峰を前に、パンと手を合わせる銀河の声は、絶対に負けられない試合を前にして、絶対に勝つと誓う時――そして絶対に勝てると信じている時のそれだったからだ。
ならば――何を心配することがあろうとみどりは思った。
パンと手を叩く。
「さあさあ、源一さん、おみそ汁冷めちゃいますよ! お爺ちゃんもほら!」
促されて、源一が新聞を畳む。義父の源太郎がテレビのチャンネルを天気予報に変える。
『本日の星見町は降水確率ゼロパーセント。お出かけには絶好の一日になりそうです』
ニュースキャスターが気持ちよく笑う。
「母ちゃん、もう一杯頂戴!」
「お母ちゃん、私も!」
銀河が言って、乙女が追いかける。
「いくらでも食べてきな!」
どん、とみどりは、ふたりのまえに大盛り飯を置く。
盛られたそれは、成層圏を軽々越えて、宇宙へと届きそうなほど、高い。
* * *
国際連合極東宇宙センター〈スペースラダー〉。
星見町の東。太平洋を望む天野湾、これを見下ろす天野山を刳り抜いて作られた、国連宇宙開発機構の国際射場のひとつ……ということになっている。
嘘ではない。
実際、全長11キロメートル、海上に、そして空に向かって延びる巨大な電磁カタパルトのレールが、まさに宇宙への梯子となって、三日と空けずに、月軌道の螺旋城を解体するための資材を宇宙へ向けて送り出している。
だが――この施設にはもうひとつの目的がある。
三年前、星見野アミューズメントパーク地下に秘密裏に建造されたギアの日本本部は、機械帝国ガルファの攻撃で壊滅した。
それにかわって新設された、ギアの日本における新たな拠点である。
現在、かつての地球防衛組織ギアは、ガルファ戦役後、地球全域で人命救助を行なう災害対策組織へと新生したが、いずれにせよ必要に応じて地球のあらゆる場所に――場合によっては宇宙へと――実働部隊を迅速に展開する必要があるのは変らない。
この場所こそは、まさにその為の施設だった。
弾道軌道――つまり宇宙空間を経由して、彼らの保有するうちで最高の柔軟性を備えた万能の機動ユニット、すなわちGEAR戦士“電童”を地球上のありとあらゆる地点に瞬時に送り込むための質量投射器――マスドライバー。宇宙と地上の架け橋である。
銀河は、その入り口でクロスバイクを降りた。
汗を拭う。残暑が厳しい。太陽は中天にさしかかろうとしている。
今日は打ち上げはないのか、周囲に人は少ない。
ゲートの前に立つ。指紋と虹彩、そしてIDカードによる三重認証だ。
もちろん、電童のパイロットである銀河は、ギアの正規のメンバーとして登録されている。
が……IDカードを取り出そうとして、その手を止めた。
これから自分がすることを考えれば……自分が入場した、ということも知られない方がいい。
「レオ」
かわりに自分の連れに呼びかけた。
傍らに、電子の獅子が現れる。
データウェポン・レオサークル。
その純白の体の先に、森の緑が透けている。エイリアス――実体を持たないホログラムの姿である。
主の意図を受け取って、獅子がセキュリティに鼻を向けるとゲートはあっさりと開いた。レオサークルにかかれば、これくらいは造作もなかった。
そのまま、主を招くように施設の中へと進んだ白い獅子は、無言の咆哮を上げた。声なき声が、施設の隅々まで響いていく。
ハイパースキャン。
あらゆる情報を瞬時に収集する、レオサークルの能力だ。
銀河の持つギアコマンダーに、スペースラダーの構造図が転送される。
目指す二つの目的地。
隔離区画、地下420メートル。
電童ハンガー及び射出ゲート、地下560メートル。
もちろん、それは直線距離だ。
実際にはもっと、もっと、かかる。
うへえ、と銀河の口から声が漏れた。
新施設に移ってからも、発進訓練は定期的に行っている。
出雲銀河と草薙北斗がゲートを通過してから電童のコクピットに乗り込むまでは、平均38.7秒。先日のラゴウとの戦いでは、それを大きく短縮した32.3秒。二人専用に作られた直通高速シューターが、一分もかからず鋼鉄の巨人の元へと銀河を運んでくれる。
だが、今は、そんなもの使えるわけがない。
通常のエレベーターでさえ危険だ。
他の職員や警備の人員と行き合えば逃げ場がない。
レオサークルの力で電子的な監視はどうにかできても、人の目は誤魔化せない。
地下420メートルと560メートル。
警備と監視を避けた、果てしない迂回ルート。
そこに向けて、銀河はたった二本の足で、歩いて行かなければいけない。
……いつもなら、ほんの一瞬の道が、今日は、途方もなく、遠かった。
* * *
「ぎん……が?」
三時間と、二十七分と、七秒。
それが、ケイトの待つ隔離室に到達し、レオサークルに隔壁を開けさせ、ケイトと再び会う――強化テクタイトガラス越しではない、本当の再会を果たすまでにかかった時間だった。
出迎えたのは戸惑う声だった。
銀河の前で、ケイトはただ立ち竦んで、目をパチパチと瞬かせていた。
どうやら、隔壁内に入ってきた銀河を幻か何かだと考えたらしい。
目の前にいるのが幻でも幽霊でも幻覚でもないと気付くまでの、十数回の瞬きを経て……
「銀河、銀河、銀河!」
銀河が本物であると確かめるように、ケイトは銀河に飛びついてきた。
真夏のプールに飛び込んだ時の匂いがした。
強い塩素の、消毒液の匂いだ。
それがケイトだけでなく、この部屋全体に充満している。
徹底的に殺菌するべき病原体。そう、ケイトを見なしている。
匂いの正体に銀河はギリと奥歯を噛み、それから、急にそういう自分はどうなんだと思い至った。
何しろ三時間半の大冒険である。
警備員から隠れ、迂回路をとり、レオサークルによる電子的干渉も最小限にとどめ、登って降りて、降りて登って、曲がって戻ってまた曲がって……時には空調もまるで届かないようなダクトの中を、立ち塞がる蜘蛛の巣を突き破り、埃の中を這って進んだ。
幸い、大きなトラブルはなかったが……今の自分は、午前中ぶっ続けで体育の時間を終えた後ぐらいの、汗みどろだ。
女の子に抱きついてもらうのに相応しい状態では全くない。
「……あ、あのさ、ごめん、ちょっと離れて貰えると」
気恥ずかしくなった銀河は、ケイトの肩に手を置き、そっと願った。
はっと、ケイトの顔に、瞳に、強い、怯えのような、失望のような――いや、もっと強い、恐怖が、覗いていた。
「銀河は、私がこわい?」
ケイトの瞳が不安げに揺れていた。
こんなはずじゃなかったのに、と銀河は思った。
ケイトと再会したらどうするか、何から話すか、いろいろ考えてきたはずだったのだ。とにかくケイトを安心させよう、不安がらせないようにしよう、そのためにどうしたらいいか、銀河なりにたくさん考えた。当たり障りのない天気の話から切り出すパターン。率直に切り出すパターン。「オレと一緒に星を見にいこう」なんてポエムな感じでいくパターン。何と言っても、ここに来るまで三時間半もあったのだ。シミュレーションは完璧のはずだった。
全部吹っ飛んだ。
「……本当を言うと……」
ケイトの瞳に見つめられて余計な小細工も浅知恵も全部吹き飛んだ。
「……めちゃくちゃこええ」
銀河は己の本音を話すしかなくなった。
「おまえがオレの知らねえ何かだったらどうしようって、毎晩考えてた」
ケイトの瞳が銀河を見つめている。
その瞳から目を逸らさずに銀河は言う。
「でもさ、飯食って、歌聴いて、キルト縫って、ダンス踊ってたおまえも、オレは見てるんだ」
ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「だから決めた。両方見た上で、オレは決めた。それは、誰にも文句は言わせねえ」
「なにを?」
ケイトが問う。
「何を――決めたの?」
銀河は頷く。
「おまえは、オレのトモダチだ」
銀河は告げた。
ケイトの瞳が揺れた。
告げながら、やっぱり「星を見にいこう」なんてガラじゃなかったな、と思った。
「だから行くぞ」
銀河が言う。
「行くって、どこへ?」
ケイトが問う。
「アルクトスだ」
銀河は答える。
惑星アルクトス。
それはすべての始まりの場所だ。銀河の相棒・北斗のルーツであり、その母・ベガの、電童の、そして機械帝国ガルファの生まれた場所である。
機械帝国ガルファに支配され、一時期はガルファ本星と呼ばれることとなったその星は、ガルファ戦役の末期、地球侵攻のために太陽系へと到達した後、再び元の名を取り戻し、今は、太陽系の十番目の惑星となって、地球とともにお天道様の周りを回っている。
「そこに行けば、きっと何かわかる」
ガルファ皇帝の“ペット”であったラゴウ。
それはどこから来たのか。ガルファと同じくアルクトスで生まれたのか。それとも、どこか別の場所から来た存在なのか。そのラゴウとケイトは一体どのような関係にあるのか。
銀河はわからない。
けれどもそれを解き明かすヒントはきっとそこにある。少なくともデータウェポンたちは銀河にそう言っていた。アルクトスにケイトを連れて行けと。
「ダメ」
けれども――ケイトはそんな銀河をやさしく拒絶するように、一歩、小さく、後ろに下がった。
そして、そっと、みずからの肩を抱く。
銀河に向けて手を伸ばしてしまいそうになるみずからの手を懸命に押し止めるように。
「ダメだよ。私、あぶないかもしれない。だから、ここにいなきゃいけない。じゃないと、みんなに迷惑がかかる。だから……」
「ダメだ、だって、おまえはここにいたら……」
応じて、銀河は言葉に詰まる。
ここにいたらおまえは殺されるかもしれない。そう言ったら、はたしてケイトはどうなるだろうか。この少女の決意に満ちた瞳を、その言葉は説得できるのか……いや、むしろ逆に……。
銀河は迷う。
その時だ。
背後で突然隔壁が閉まった。
頭上で照明が赤に変わり、部屋中に警告音が鳴り響いた。網膜を焼く赤い明滅と、鼓膜を貫くエマージェンシーの音量は、それ自体が拷問なのではと思えるほどの激しさだった。
「なんで!?」
と銀河は叫ぶ。レオサークルに頼んで監視システムは止めてもらったのに、と、銀河は足元で半透明化しているレオサークルを見た。
電子の獅子は、「これは私のせいじゃないんですよ、ご主人」と言わんばかりにクウーンと鳴いた。実際、レオサークルは本当に悪くない。
たとえるなら、キッチンにあるゼンマイ式のトマトのタイマーだ。
廻すとジジジと30分ほどかけて回って、時間が来るとジリジリジリジリー! とパスタの茹で時間を教えてくれるヤツ。あれの親玉みたいなヤツが、ドアに仕掛けられていたと思ってほしい。こんなもの0と1との数字をいくら上手に捏ねてもどうしようもなかった。
『――――最終焼却プログラム作動まで60秒』
機械音声が抑揚のない声で告げた。
「焼却? ゴミでも燃やすつもりかな」
焼却という言葉の意味するところが掴めず、銀河がぼんやりと言った。
その時、思い出していたのは、小学校にあった古い焼却炉だ。
星見町のゴミ処理施設が新しくなって、環境問題対策とかで、銀河が四年生か五年生の時には閉鎖された。
「違う、私たち、ううん、私。外に出たら危ないから燃やすの」
ケイトが言った。
自分は危険な存在だ。だからこうして閉じ込められている。けれども万が一、それが破られたら危険が外に及ぶ前に、燃やす。
「レオ!」
ようやく事態を把握した銀河が叫び、けれどもレオサークルが悲痛な無言の叫び声を上げた。
警告が作動し隔壁が降りた瞬間、この部屋は、無線有線問わず、あらゆる電子回路から物理的に遮断されていた。もはや、内側からは、電子の聖獣であっても手の出しようがない。
『30秒』
カウントダウンが告げた。
無力だった。
ケイトを抱きしめるほかなかった。
拳を握る。
あとにできるのは祈ることだけだ。
頼む。誰か。
でも、誰が。
『10秒』
聞き届ける者などいるはずもない。
カウントは無情に進む……はずだった。
『3、2、2、2……』
不意にカウントがループし始め、やがて止まった。
警報が止んだ。
隔壁が開いた。
バグか、それとも、誰かが。
わからない。わからない。
しかし、為すべきことはわかる。
銀河は、ケイトの手を引いて駆けだした。
「行こうぜ、ケイト!!」
ケイトはその手を握った。
もう、迷ってはいなかった。